2009年度第3号
森谷重二朗前会長との思い出
副会長 松元 邦夫
今から30数年前、百尋の滝で「君はなかなかうまい確保をするじゃないか」と初めて森谷さんに声をかけられた。その頃の森谷さんは、遭対委員会の委員長で、リーダー集会(現在はない)でお目にかかり、私が一方的に存じ上げていただけである。その時は、第2種指導員の岩場の検定でのことであったが、遭対委員長の森谷さんから褒められたことが、当時の私にとっては、とても嬉しくて、今でも強烈にその時のことを覚えている。
リーダー集会であったり、山であったりして顔だけは覚えてくれたが、まだ名前も覚えてくれなかった頃、冬の一ノ倉の救助を「君行ってくれないか」と声をかけられたり、山で会った時など、気軽に声をかけられた。そんな森谷さんにひかれて、一時遭対委員会に入ろうかとも思った。あけっぴろげで、思った事を腹にしまえず、ずばずば言ってしまう、典型的な下町育ちであった。「五月の鯉の吹流し」のことわざを地で言った感じのおじさんだった。私も東京育ちなため何となく森谷さんが理解できたのだった。
私もその後、都岳連の理事にさせてもらったが、その当時の理事は50人もいた。森谷さん以外誰も知らない私を、海外の山に行ったことがあるというだけで、海外担当理事にさせられた。森谷さんは理事会でもよく喋り、理事会後、飲み屋に行っても、飲み会を仕切る姿は、かっこよく頼もしくも思えた。私はと言うと末席で両肩がカチカチにこるだけで、面白くも何ともないが、「松元君こっちにこいよ」と森谷さんに声をかけられると、嬉しくて嬉しくてたまらず、飲み会が終るまで隣にピッタリとコバンザメのようにくっついていた。
また、森谷さんから谷川岳のパトロール、富士山のパトロールに来いと誘われると、何をおいてでも参加した。
年月も経つにつれて、私もとりあえず都岳連で幹部になったが、いつも森谷さんは、直属の上司であった。企画部のときも、事業部の時も、そして、私が副会長になっても、森谷さんは筆頭副会長であり、私が筆頭副会長になれば、森谷さんは会長であった。また耐久レースでも、森谷さんは大会会長、私は大会副会長、シベリヤ遠征でも、総隊長が森谷さん、私は総副隊長であった。何時も森谷さんの下で、時には愚痴も言いたくなり「森谷さん何時も尻拭いばっかさせないで、たまには、俺の面倒をみてよ」と言えば「なに言ってんだ、お前の我がままを、何十年も目をつむっているんだ」と言われながらも、今日まで、30数間年もこき使われた。よもや百尋の滝の出会いから、今日まで付き合うとは、思いもよらなかった。
馬があったわけでないが、なんとなく、森谷さんが好きだったんだと思う。また森谷さんも何時も「松チャンは、弟ぶんだから」と言われながらうまく使われたのかもしれない。
森谷さんは、神輿の上に乗り、うちわを仰ぎ、かつぎ手をおだてながら、神輿を進めるタイプのリーダーである。口だけは人の3倍しゃべり、たまには「森谷さん黙っててよ」と言うこともあるが、一人では何も出来ないし、腹の内を見せちゃうから交渉ごとがまるで駄目だが、口数の多さで周りの人間を巻き込み、いつの間にか仕事をさせてしまうそんな人だった。
余命いくばくもない病院のベットの上で、細くなった、ふくらはぎをもんであげながら、「なぁ、松チャン都岳連をたのむよ」と言われたが、「森谷さん俺に頼むより、自分で気になる奴の、枕元に出て行き、言いたいことを言ったほうがいいですよ」「そおか、そおするか」
森谷さんとの最後の会話だった。
40数年、都岳連が命だった森谷さんに、 合 掌。